15:15 奥出雲のあぜ道で山田達郎は新しいデザインをひらめいた。
山田達郎 株式会社ベッセル島根
奥出雲の実家へ戻って間もない頃、近所では「山田達郎が帰ってきたらしい」という話が広まっていた。顔を合わせれば、草刈りをしてほしい、雪かきを手伝ってほしい、足を痛めたから水道メーターを見てきてほしいと声をかけられる。気づけば地域の中に、自分の役割が生まれていた。
地元のつながりで得たものを、山田は今、新製品の開発に生かしている。勤め先はベッセル島根。彼が設計開発に携わった工具が、この夏、世界の市場へ送り出される。奥出雲の田畑と世界の現場を結ぶ線上に、山田の仕事がある。
山田は、田んぼと畑、山と川に囲まれた奥出雲の農家で育った。祖父も父も、必要なものがあれば、買うより先に自分でつくる人で、農具だけでなく椅子やベッドまで手づくりしていた。家には工具がそろい、ものづくりは暮らしの中にある当たり前の営みだった。
それでも若い頃は、都会へ出てみたいと思った。遊べる場所があり、人も多い街は、未知の世界として山田を惹きつけた。岡山の大学へ進み、県外の企業で6年半、クレーンやギアボックスなど、機械設備の設計の仕事をした。安全性や正確さへの配慮を学ぶ一方、役割が細かく分かれた仕事では、自分の考えを反映できる機会は限られていた。
ある時、家族のけがや祖母の体調不良が重なり、それから月に1、2度、奥出雲へ帰るようになった。
「正直、実家に戻るのは毎回おっくうでした。仕事が終わって広島を出て、着くのは夜中ですから、体力的にもきつくて。この生活を続けるのは限界だと思いました」
やがて仕事を辞め、一度地元へ戻ることを決めた。落ち着いたら、また都会へ出ればいい。そう思っていた。
「それが、実家暮らしが思ったより良かったんですよ」と山田は笑う。草を刈り、雪をかき、近所の人と話す日々は、想像よりずっと楽しかった。地域の人たちと話す時間も刺激的だった。山菜の採れる場所、虫への対策、壊れた道具を直す工夫…そうした暮らしの知恵を聞いていると、年の離れた相手とも話は尽きない。必要なものを自分でつくり、道具を自分仕様につくり変える姿は、祖父や父のものづくりと重なって見えた。
山田は、「都会へ戻りたい」という自分の気持ちを、細かく考えてみた。自分が欲しかったのは、カラオケや居酒屋、コンビニ、友人と遊べる場所だった。それらは奥出雲に暮らしていても、松江や出雲まで出れば手に入るものだ。
「別に毎日のことでもないし、どうしても行きたければ仕事が終わってからでも行ける距離なんですよね。じゃあ、ここで全然いけるじゃん、って思ったんです」
やりたい仕事も、思っていたより近くにあった。ハローワークの企業説明会で、ドライバービットで国内トップクラスの売り上げを持ち、製品の半数以上を海外へ送り出すベッセルを知った。その製造拠点は地元の奥出雲町にあった。だめもとで設計や開発の仕事があるか尋ねると、募集しているという。
「自分のやりたいものづくりの仕事が、こんな近くにあって、しかも世界につながっていることに驚きました。自分は、都会そのものが欲しかったのではなくて、好きなものが選べる環境が欲しかったのかもしれない。そう考えれば、仕事も、遊びも、人のつながりも、自分が欲しい物は全部すぐそばにあったのかもって思ったんですよね」
入社後は、ビットやビットホルダーの図面を描き、素材や熱処理の条件を考え、試験と改良を重ねている。前職で身につけた安全性や製造者への配慮を土台に、使う人の顔を想像して形状や材質を考える。そうしたベッセルの仕事には、形のないものを創作する喜びがあった。頭の中のイメージや構想が製品になり、現実へ広がっていく。その感覚は、仕事の新しい喜びとして山田をとらえた。
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近所の農家や職人から聞いた、工具を長く使いたい、色を揃えたい、箱にきれいに収めたいという声も、新製品を考える手がかりになる。そういう発想を会社で提案すると、「確かにそうだね、やってみよう」と受け止めてもらえる。奥出雲での暮らしと、世界へ向けたものづくりが、山田の中でつながり始めていた。
奥出雲へ戻った頃、彼のもとに届いたのは、草を刈ってほしい、雪をかいてほしいという近所の声だった。それから1年あまりが過ぎたこの夏、今度は山田の考えた小さな工具が奥出雲を離れ、世界のどこかで、誰かの手に握られ、ものをつくる人たちの仕事を支えていく。短いドライバービットを延長する小さな工具。すでに世界向けの広告に掲載され、その画像を山田はパソコンの壁紙にしている。
「気に入ってもらえたらうれしいですね。便利さや耐久性はもちろん、物として愛着を持ってもらえる製品をつくりたいと思っています」
PROFILE
株式会社ベッセル島根
山田達郎 Tatsuro YAMADA