11:15 宍道湖のほとりで、一ノ渡真行は土地の価値について考えていた。
一ノ渡真行 株式会社田部
こちらの質問に、一ノ渡真行はすぐに答えない。メガネの奥で視線を落とし、考える。短い沈黙のあと、言葉を一つずつ置くように話し始める。勢いで喋る人物ではない。
「家事にかかる時間はコストだと、前は思っていたんです」
20代前半の頃、一ノ渡は、東京に巨大な本社ビルをもつ業界最大手のゼネコンで働いていた。仕事は忙しく、家事にかける時間はできるだけ減らしたかった。空いた時間は投資や資格の勉強に充てる。合理的に生きることには、たしかな充足感があった。けれど、結婚して島根に戻ってから、少しずつ変わった。
「そんなにせかせか生きてもしょうがないかなって思うようになりました。日常って割と楽しいんだなと、今はそう思います」
現在一ノ渡が勤めるのは、田部。室町時代から雲南市吉田町でたたら製鉄を営んできた田部グループの中核企業で、山林、外食、住宅、酒造、地域開発など多角的に事業を展開する。一ノ渡は、その経営計画や新規事業、M&Aの検討に関わっている。
一ノ渡が生まれたのは、出雲市佐田町。出雲高校へ進み、東京大学へ進学する。幼い頃から勉強はできたし、周囲からの期待も感じていた。東大では法学を学び、官僚を目指した時期もある。けれど、思うところあって文学部へ移り、日本文学を学んだ。
就職では、地域と関わる仕事を探した。最初から島根に戻るのではなく、まずは視野を広げたい。そう考えて、業界最大手のゼネコンへ入った。2年目、ある大規模工事に関わるため、鹿児島の種子島へ赴任する。
島は、不思議な高揚に包まれていた。工事に伴い、都市部から人と資本が流れ込み、局所的なバブルのような状況が生まれていた。代々続いていた店が更地になり、工事関係者向けの住宅が建てられる。地元の飲食店が退去を求められ、高額な賃貸に切り替わる。空き家1棟の家賃が、月40万円になることもあった。
「異質な世界でした。工事が終わったあとの島は大丈夫なのだろうか。そう思わずにはいられなかったです。地域の経済やコミュニティーが成立していないと、町の風景は簡単に失われてしまう。人口が減って経済が縮んでいく中で、自分の地元も、同じような状況にならないとは言えません」
島根に戻って仕事をしなければいけない。そう思った一ノ渡は、田部への転職を決めた。その会社に、理屈を超えた強い使命感を感じたのだ。
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田部に惹かれた理由のひとつが、吉田町で地域づくりを進める「たなべたたらの里」の取り組みだった。人口減少が進む土地を、ただ縮んでいく場所として見るのではない。山林があり、たたらがあり、酒蔵があり、食がある。その土地に残ってきたものを、これからを支える事業として捉え直そうとしている。
入社面接で会った社長の印象も強かった。経験やスキルを細かく問われるのではなく、日本の食料自給率や地域の課題について話をされた。
「前職で多くの経営者の方にお会いしましたが、社長は今まで会ったことのない、誰にも似ていない不思議なオーラのある人と感じました」
田部に入社して2年。印象的な仕事がある。松江の老舗酒造のM&A事業だ。地域に根付く酒蔵の灯を絶やさない。その思いから始まったプロジェクトだった。
「正直、会社の短期的な利益だけで判断すれば、実入りのいい事業とは言えないかもしれません。それでも、そこにはもっと大切なものがあるのだという、社長の思いを間近で見る。そういう経験でした」
そうして醸された新酒を飲ませてもらった時、一ノ渡は、自分の仕事に静かな手ごたえを感じた。店先に「豊の秋」が並んでいるのを見る時、関わった仕事が、誰かの生活に届いていると感じる。
「お金のために働いている感覚は、前よりなくなりました」
ある時、本を読んでいて、「虫の眼」と「鳥の眼」という言葉に出会った。相手の息遣いが感じられるほど近づく虫の眼と、歴史的な風景を俯瞰する鳥の眼。近づき、遠ざかり、行き来しながら考えること。
PCで表を作り、計画を立て、データを分析し、事業の収益性を弾き出す。分析は一ノ渡の得意な仕事だが、それだけでは足りない気がしている。
「もっと現場を学べと言われることがあります。デスクから離れて、虫の目で、至近距離から感じること。今も自分に必要な力のように思います」
種子島で見たのは、経済的な合理性の積み重ねが、暮らしの街並みを変えていく現実だった。一方で、田部で見たのは、短期的な利益だけでは測れないものを残そうとする仕事だった。酒蔵の銘柄、たたらの火、土地に続いてきた営み。それらを次へつなぐには、数字を眺める目だけでは足りない。
「合理性だけでは測れない日常の楽しさに気づけるようになったんだと思います」
松江市の自宅で妻と暮らしている。朝6時半に起きて弁当を作り、妻と途中まで一緒に通勤する。仕事を終えたら妻を迎えに行き、スーパーで買い物をして帰る。旬の野菜や果物を選び、宍道湖のほとりを夜に散歩する。かつて効率の外に置いていた何でもない時間が、今は生活の中心にある。
PROFILE
株式会社田部
一ノ渡真行 Masayuki ICHINOWATARI